色々とblog書いてるけど、そもそもHalleyって何者!?と思ってる方もいると思うので、このページでは私のプロフィールについて紹介しようと思う。
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1985年、福島生まれ神奈川育ち。
3歳から10年間クラシックピアノを習う。
神奈川郊外の緑豊かな地元で、おっとりしてて心優しい幼馴染達と穏やかな日々を過ごしていたが、転校がきっかけで事態が急変し始める。
転校がきっかけで創作活動を始める
小学校1年生の頃、親の転勤で岩手へ。
新しい環境に馴染めず、生きづらさを感じ始めた出来事だった。
転校先の人間関係に苦労した経験から、いじめ防止を啓蒙する自伝の漫画や小説を書き始める。
通信簿に「協調性がない」と書かれたり、頭のおかしい都会っ子として日々過ごしていた。
しかし、小2くらいから次第に絵を描くのが得意な子、歌うのが好きな子などと芸術や創作活動を通じて交流が生まれ、友達ができ始めた。
その中の1人から誘われ、小3の時に合唱部に入部。
東北は合唱の強豪校が多く戦いが激しいので、スパルタ特訓の洗礼を受ける。
夏休みも片道2キロの道のりを毎日学校に通い、腹筋を鍛える筋トレや発声練習に明け暮れた。
その結果、小学生にして腹筋が割れた。
ミックスボイスなど高音域の発声はその時に身につけたものである。
居場所がなかった小学生時代に作った曲。高音域が特徴的なバラード。
いとこが勘当されたショックで作詞・作曲を始める
詳しくは別記事に書いたので割愛するが、小学生の頃いとこが立て続けに祖父から勘当された。
www.clear-scent.com
小4の時、まだ勘当されてなかった残り2人のいとこが勘当された際に悲しみに明け暮れ、やり場のない想いを曲にしたところから作詞・作曲を始めた。
音楽を始めるきっかけとして、誰か憧れのアーティストがいたなどということが動機になるケースが多いと思うが、私は居場所がなくなって気が狂って、正気を保つために創作することから入ったクチなので、ちょっと珍しいケースかもしれない。
地元に戻って浦島太郎
4年ほど岩手に住んでから小5の時に神奈川に戻ったが、さすが都会。子供達がませている。
岩手にいた時は、ひたすら陸上!合唱!クラスの男子と女子が対立して喧嘩!みたいな毎日を過ごしていたが、神奈川ではもはや男子と女子は対立を終え和解していた。
男子との関わり方も分からないし、みんなとの共通の思い出も少なく浦島太郎状態になってしまって、孤独感を感じることが多かった。
幼馴染ともぎくしゃくしてしまい、大きな喧嘩をして学校で問題になったこともあった。
その時、誰も自分を理解してくれる人はいないのだという想いから深い悲しみを感じ、この曲を作った。
この頃から、何か辛いことがあると曲を作ることで苦しみを緩和するようになった。
大学を卒業するまでに60曲以上は書いたと思う。
いつか大人になってこれらの曲を色んな人に聴いてもらい、1人でも共感してくれる人がいたら、今の自分が報われると思ったからだ。
深い孤独と苦悩を乗り越えるために、未来へ希望を託すことを選んだ。
人生をリセットするためのガリ勉
中学3年間は、無きものにしようと思った。
なぜなら、コンタクトレンズを入れることを「まだ早い」と親に止められたからだ。
小学生にして目が悪くなってしまった私は、中学校生活はコンタクトで過ごしたいと思っていたのだが、ダメだった。
容姿にこだわりがあったのでどうしてもそれが許せず、中学校生活は諦めることにした。
その代わり、曲作りと同じように未来に希望を託そうと思った。
具体的には、中学3年間は全てを捨てて勉強だけに徹し、同じ中学の人が誰も行かないような東京の私立高校に入って、人生をリセットしようと考えた。
中1から通い始めた進学塾は、なかなか楽しい空間だった。
学習レベルに合わせてクラス分けされるので進度にストレスがないし、周りの人と切磋琢磨しながら高みを目指せるのが面白い。
塾の先生の勧めもあり、私は共学の附属校を目指すことにした。
コンタクトにしてお洒落して人並みに恋もしたかったし、中学3年間青春を犠牲にするのだから高校生活は3年間フルに楽しみたい。
あとは、正直自分の人間力や生活力、コミュニケーション能力に不安があったことも大きい。
中学時代は「勉強だけしてればいい」と言われ、それ以外のこと(家事とか)を全部家族にやってもらったり、外部の情報を遮断したり、勉強仲間以外とのコミュニケーションをないがしろにしている自覚が強かった。
どこかで「世間知らずで何もできない自分」を恥じ、強いコンプレックスを感じていた。
だから高校生活では、勉強よりも人とのコミュニケーションや人生経験を積むこと、人生そのものを豊かにしていくことに重きを置こうと考えたのだった。
中学時代は青春を諦めていたため、どこか冷めた目線で周りを観察していた。そんな「輪の中に入れない傍観者」の視点から中学時代に作った曲。
人生は、変えられるのかもしれない
無事第一志望の共学附属校に合格し、青春を謳歌するはずが、人間関係で苦労する。
結果的に人生で一番辛い3年間になったが、コミュニケーション能力は格段に上達した。
そのままエスカレーターで大学に進学したが、そこであまりの自由さに衝撃を受ける。
これまで散々人間関係で苦労してきたけれど、大学はそもそもクラスという括りもなく、それぞれが勝手に勉強や趣味を通じて気の合う人を見つけて仲良くなるも良し、もちろん1人で授業を受けても良しという気楽さのある場所だった。
今まで一体何に悩んできたのだろう・・・?
人に勝手に決められたコミュニティの中でうまく立ち回らないと風当たりが強くなる。
そんな高校までの閉塞感がバカバカしくなり、学校外も含め積極的に外に出ていくようになった。
「絶望の中の希望」を伝えたかった
高校3年生までは、教室の隅っこで目立たないように攻撃されないように縮こまる、孤独で暗い日々を過ごしていた。
それが、大学が入ってすっかり人が変わったように明るい性格になっていった。
また、とあるインターンシップを受けたことで夢とは職業のことだけではなく「どんな自分でありたいか」という理想像のことで、それを達成する手段の1つが仕事なんだよと教えてもらった。
この考え方に感銘を受けたこと、また、就活を通じてイキイキと楽しそうに仕事をしている社会人がいることに衝撃を受けて、そんな大人になりたいと思うようになった。
これは、小学生の頃から一貫して私が曲づくりのテーマに掲げている「絶望の中の希望」とも一致する。
「仕事とは辛いものだ」「社会人は死んだ魚のような眼をして満員電車に乗っている」
そんなイメージを覆す人になり、それを後輩たちに伝えたかった。
人生初の挫折
上記のような理由から、主に人材系や教育系のベンチャーを目指して就活したが、あえなく失敗。
結局当時採用人数の多かった大手金融機関に滑り込むこととなった。
これまで受験や大学の学部争いではいつも第一志望に通っていたから、まさか自分が人生の進路でつまづくことがあるとは思っていなかった。
人生初の挫折は人生の重い影となってのし掛かり、何者にもなれない自分に日々フラストレーションが溜まっていった。
「自由でイキイキと仕事を楽しむ、ちょっとぶっ飛んだ大人」を目指していた中、真逆の環境に行ってしまい、周りから浮いて、また高校時代までのように孤独になってしまった。
分かり合える人がいない孤独から、曲作りに打ち込む。「孤高のエリート」にも「お茶目な人気者」にもなれないどっちつかずなモヤモヤを表現した。
声帯ポリープと3.11
日々のフラストレーションがあまりにも溜まりすぎ、恒常的に風邪のような状態が続き、皮膚炎なども止まらなくなった。
気持ちが荒れては飲み歩き、ある日病み上がりの中大声でカラオケで歌ったところ、声帯ポリープができてしまった。
もう歌えないかもしれない。
あまりの悲しみに打ちひしがれた時、やっぱりまた音楽をやりたいと思った。
幸いポリープの手術は無事成功し、完治後にピアノでの編曲アレンジを習い始め、そこからたまに弾き語りをするようになった。
また、同時期に起きた3.11にも大きく影響を受けた。
自分が生まれた福島や昔住んでいた岩手が大変な状況になり、東京オフィスの壁や扉も破壊され、人生がこのまま終わってもいいのか?とよく考えるようになった。
それによって、大学時代に身につけた特性である「外に出て情報を取りに行く」ことを再開し、キャリアについても考え直すようになった。
やっと居場所を手に入れる
キャリアについて考える過程で、たくさんの仲間と出逢うことができた。
学生時代学生団体で就活イベント等を主催していた人達と若手社会人向けイベントを企画したり、その繋がりで「ワールドカフェ」というブレインストーミングのようなことを定期的にやるコミュニティにも参加するようになった。
また、グローバル×マーケティングをテーマにしたビジネススクールにも1年間通い、そこで生涯の友を得た。
自分で探し選んだ「価値観の合う人達」に触発され、キャリアチェンジもすることにした。
価値観が180度変わるような衝撃的な気づきを曲にした。
当時、外の世界に出た飛び出した際に、気づきを与えてくれた人達からの学びのエッセンスを曲にしてまとめた。
居場所を得て気づいた「本当にやりたいこと」
その後、紆余曲折あり色々な経験を経て、今はとある外資系メーカーで働いている。
通常ないようなクレイジーで刺激的な環境にいさせてもらえてることは、とてもありがたく思っている。
ずっと居場所がなくて、人ともうまくコミュニケーションが取れず孤独だった少女は、大人になるにつれて行動範囲を広げ、外の世界へ出ることによって価値観の合う人達を見つけ出すことができた。
そして、自分自身を大きく変えてきた。
友を得て職を得て、一段落して気づいたのは、やはり私は音楽を通じて「絶望の中にも希望がある」ということを伝えたいという想いだ。
居場所を探すことに多くの時間を費やしすぎて気づいたらこの歳になってしまったが、人生100年時代。まだまだ先は長い。
これからも、より幸せを感じるため、挑戦し続けて行こう!そんな風に思っている。
いつからでも人生はやり直せる。そんな気持ちを込めた背中を押す曲。2017年、この曲を皮切りに小学生〜今まで作った曲の音源化を始めた。