人生やり直し記

シンガーソングライターHalleyのblog

音楽を始めたきっかけはトラウマ。ショックで頭がおかしくなって曲が降ってきた。

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どうも、はるにゃんです。
今日は、わたしが曲づくりを始めるきっかけとなった原体験についてお話しします。


もともと3歳からクラシックピアノを習っていたり小学校で合唱部に入っていたりと音楽には縁のある生活を送っていたのですが、まさか自分が創作をするようになるとは思わず。

ただ、小さい頃から自作のおもちゃをつくったり絵を書いてひとりで遊ぶのが好きな子どもではありました。


ひとりで家にいるのが一番好きではありましたが、社交性もまったくないわけではなく、近所の公園に行けばリーダー的な存在の子に引っ張られながらそれなりに楽しい時間を過ごしていました。


また、家庭の事情で幼稚園を一回変わったものの、二ヶ所どちらでも友だちができ、まぁまぁ馴染んでいたように思います。


それがだんだん社会不適合者レベルに悪化しだしたのが、6歳くらい。

好きな場所は祖父母の家、好きなイベントは親戚の集まり

わたしはかなりのおじいちゃん・おばあちゃん子で、人生最初の記憶も、父方の祖父母と一緒に公園へ行って、ブランコに乗りながら弟が産まれるのを待っている、というシーンから始まっているほどです。


一緒には住んでませんでしたが、しょちゅう帰省しては祖父母と遊んでいました。


祖父母界隈の交流の中でも特に好きだったのが、お盆やお正月に親戚が一堂に会す集まり。


父は三人兄弟の三男で、各三兄弟に子どもが男女一人ずついて、全員が集まるとかなり賑やかに。


わたしは二人兄弟の長女でふだん我慢することも多く、兄や姉のような存在に甘えたいという気持ちが強かったため、従兄弟たちに会える機会はかなり貴重でした。


そんな毎年の楽しみであった場が人生のかなり早い段階で失うとは、このときの私は想像もしていませんでした。

優秀じゃないと愛されない?

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ねずみ講みたいな家系図で失礼します!笑

当時、上の図のような一族でよく祖父母の家に集まっていたのですが、私が小学校に上がるか上がらないかの頃、突如事件が勃発しました。


ある日、いつものように祖父母の家に行くと、叔父(長男)一家も遊びに来ていました。

当時、一足先に学生になっていた従兄弟たちの間では、祖父母の家に行って通知表を見せるというのが通例行事になっていたのですが、どうやら一番年上の従兄弟・A子の高校での成績が芳しくない様子。


A子が祖父に通知表を見せると、その途端祖父はガチギレ!
そして、またたく間にどなり散らし、その場で即、家族ごと勘当されました。


来て数分で通知表の結果を理由に追い返される。

その光景が怖すぎて、物陰から怯えて見ていたのを覚えています。


それ以来、「優秀でないと愛されない」という想いから、追い立てられるように自発的に勉強するようになりました。

一家勘当事件、連続勃発!

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とまあ、このような事件によって上の図の状態になったわけですが、この段階ではまだ叔父(次男)一家とは繋がりがありました。

よって、人数は減ったけど、親戚たちとの集まりを楽しむことができました。


ところがどっこい!

あるとき、ちょっとしたくだらないことがきっかけで、C男・D子・私 VS で3対1のケンカをし、誰かが弟に蹴りを入れて泣かせたことがありました。

それによって、またもや祖父がブチギレ!


叔父(次男)が仲裁に入ったら、今度は祖父と叔父が取っ組み合いのケンカになり・・・

なぜか叔父(次男)一家も一家丸ごと勘当されるという謎の事態に陥りました。

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くだらない子ども同士のケンカがここまで大事になってしまうなんて・・・


マセてた当時のわたし(8歳)は、自分なりに弁解のためのプレゼンテーションをしようと試みたけど、

「子どもの言うことなんて真剣に聞いてもらえず跳ね除けられるだろう」

「自分の理論は詰め甘くて穴があるだろう」

そんな考えが頭を巡り、喉がつまったように苦しくなって声を挙げる勇気を出せぬまま、次男一家を見送ることしかできませんでした。

心を閉ざし、愛を拒絶。人間関係がうまくいかなくなる。

それ以来、生きる希望を失ってショックで慢性的に悩み続けるようになりました。

また同時に、

・いい子にしてないと自分の好きな人たちは目の前から去っていく。


・ワガママで自己中で一番小さくてまわりから甘やかされてる要領のいい人(つまりは弟)を中心に物事は動いていく。それ以外の人は我慢させられるだけ我慢させられ、いつか見捨てられる。


・自分は弟とは違い無条件にありのままを愛されはしないので、優秀であらねばならない。

という思いが強まっていき、祖父に心を閉ざすようになっていきました。


祖父母の家に行くのも苦痛になっていき、
何でこんな頻繁に帰省してるのだろう?
父親だけ行けばよくて、こんな大きくなってまでわたしたちは行く必要ないのでは?
と疑問を抱くようになりました。


楽しみだったイベントは、いつしか苦痛を伴う「家族サービス」という名の強制連行へと変わっていきました。


また同時期に、慣れ親しんだ神奈川から岩手に転校し、最初のクラスにはなんとか馴染めたものの、クラス替え後、なかなかクラスに馴染めないという事案も発生してきました。


最初のクラスは謎に問題児が集結したクラスだったため、やりたい放題行動してもとくにスルーされ素行は目立ちませんでした。

GTOの女版みたいなカリスマティーチャーがいて、一体感があったのも大きかったかも。


しかしながら次のクラスには問題児がほとんどおらず、GTOの管轄からも外れ、ただでさえよそ者で(成績以外の)素行も悪いわたしは完全に浮いてしまいました。

そしていつしか、クラスで嫌がらせを受けたり、よく先生に怒られるように。


日々感じるのは、孤独感、故郷の神奈川に帰りたいというホームシック、世間の世知辛さ...ただそれだけでした。(注:当時8~9歳w)

苦痛にうなだれて過ごしていたら、ある日突然メロディーが降ってきた

叔父(次男)一家勘当事件で勇気を出して声を挙げられなかった自分を責めつづけ、従兄弟たちにもう一生会えないということに絶望し、見知らぬ地ではありのままの自分が受け入れられず...


毎日絶望と苦悩に打ちひしがれた暗い日々を過ごしていたある日、わたしは家で一人留守番をしていて、ふとダイニングキッチンに付いている白い戸棚を開けました。


そこには父が集めたCDが収納されており、積み上げられたCDケースの束をぼーっと眺めていたら、突然天井からメロディーが降ってきました。

そして、そのメロディーに今の想いを乗せて曲にしようと思い立ちました。


最初につくった曲は、「従兄弟たちにはまたきっと会える。だからさよならという言葉は口にしない。」というような趣旨のもの。


それから、学校でイヤなことがあったとき、消化できないほどの苦しみや悲しみに打ちひしがれてたときなどに、曲をつくるようになりました。


そのときの心情にピッタリな言葉を、なるべくありきたりな表現にならないよう限られたスペースの中に当てはめていく作業はなかなか頭を捻りますが、産みの苦しみを感じることで今感じてる苦しみを忘れられるし、無事完成したときの喜びや達成感によって苦悩を昇華できたときは、悲しみもどこかへ行って本当にスッキリします。


こうやってわたしは、耐え難いほどの苦痛を処理するための自分なりのベストな方法を見つけることができました。

「トラウマの裏側にはギフトがある」は本当だった

トラウマとなった体験を突き詰めていくと、その人が得た「ギフト」が見つかり、そのあたりに人生かけてやっていきたいライフワークがあるという話をよく聞きますが、今回振り返ってみて、たしかにそうだなぁと思いました。


この事件がなければこんなに生きづらい人生にならなくて済んだかもしれないし、世間の目を気にした生き方・働き方をして潰れる必要もなかったかもしれない。


罪悪感から好きなことに向き合えず、音楽活動開始を20年くらいズルズル後ろ倒しにもしなかっただろうし、早めに好きなことをやってある程度満足し、若いうちに家庭を持てたかもしれない。


色々思うところはありますが、そもそもトラウマとなるような体験があって心を閉ざしていなければ、作詞・作曲自体やってないわ!ということを考えると、すべてはムダではなかったのかな、というような気もします。


原体験に立ち返り、当時の出来事を許し、ギフトを与えられたことを感謝して、創造のベースとなってるテーマ「家族愛」に気づく。


それができたなら、これからは孤独や絶望だけでなく愛を表現していきたい。

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